無事終了しました

おかげさまで3/19、20のイベントは無事に終了しました。
天候に恵まれ春を感じる2日間となりました。

そう、個展というよりはイベントなのですが。
沢山の人と会うのは楽しいものの私は沢山の人とお会いすると疲れてしまう体質でこのイベントが終わるといつも取り戻すまでにとても時間がかかってしまいます。

ひとりでいるのが好きだし静かな時間を愛しているのですがこのイベントは春の気配を感じられる頃ということもあり皆さんのわくわくした気持ちがとても伝わってきて・・・嬉しい気持ちを共有させていただけます。今年は3回目なこともあり、少し慣れたのか復活がはやくなった気がしています。そんなふうに感じられることもとても嬉しい。

イベントが終わったらあれよあれよというまに桜が咲きだし、春がやってきました。

自分を優先したら申し訳ない気持ち

やることが沢山ある、と思っているとせかせかした気分になってしまって集中力も削がれるし何しろ落ちつかない。自分の性質から余計にそうなるのも最近では自覚しているけれどなかなか自分の本分に集中しきれないのはどうしてなのか。

「あの人のところにお手伝いにいけるかなぁ、いや今は自分のことしないといけないでしょ。いやでも行こうと思えば行けるかも」

自分を優先することを心地よく感じていないみたい。誰かに貢献すること=良いことであるという想いの方が強く自分へ貢献することは考えたこともなかった。頼まれたら引き受ける、困っている方がいれば手を差し伸べることが強く自分の中に根づいていた。

どうしてそんなふうに考えるようになったのか…思い返してみると父親の「お前はわがままだ」という言葉が浮かぶ。呪文のように言われ続けて育った。「お前は普通じゃない」という言葉も。わがままっての思う通りに行動してはいけないってこと?普通ってどういうことなの?何となくこのままでいてはいけない感じがする。それは自分のエゴをゆるさないという観念にも繋がっていく。

ずっと普通であるということに憧れの気持ちがあってもっと頑張らないと普通になれないと思って生きてきたということに漸く気づく。自分の意見を言ったり主張してはだめ、わがままだから。そうして生きているうちにわたしはどこかに追いやられいつしか自分がどうしたら良いのかさえ分からなくなっていた。

いや自分を生きずしてどうする、せっかくわたしに生まれてきたのに。
自分の想念と一体化し過ぎているとこんな些細と思えることにも気づけなくなってしまう。
あれをする?これをする?毎日が小さな選択の連続。それにストレスを感じる自分。
この世界には普通なんてどこにも無いと分かったのにどこかでそれを探してしまう自分。

わたしはこれがしたいの。

シンプルに答えがでてくる自分に出会いたい。

忙しなさのなかに静けさをみつける

誰かの文章で見かけたのだけど「2月は逃げる、3月は去る」というのだそう。この数年、いやずっと前から(時間の経つのが)あっという間ですね、とか早いですねという話になる。年を重ねると早くなるんだということを小学校の時先生にきいた記憶がある。それもあるのかもしれないけど、全体的に加速しているような印象もある。

そして今、誰もが忙しいと感じるのは、情報量の飽和もあるのかもしれないとふと思った。そして忙しいと思うことによりまた次の忙しい自分を作りだす意識のようなもの。頭で分かっているつもりでも腑に落ちるまでは同じ事を繰り返したり、思ったりする。

ニュートラルでいることの何と難しい事だろう。

それでも静けさへの小さなドアみたいなものがきっかけとしてあるような気がする。どうしたって巻き込まれる時は巻き込まれるんだよなーという気持ちも含めて柔らかく自分を見守りながら少しずつ。

3月2人展のお知らせ

来月春分に今年も草木染nagomiさんと展示をご一緒させていただきます。
DMが完成〜デザイナーでは無いけれど最低限の事は自分でする。写真も自分で撮る。
本当はその道のプロにお願いするのがいいと思うけれど。。

今年はバッグに描かせてもらうコラボをすることになりました。
わたしのちょっとした言葉にすぐに反応してくれるnagomiさん。
布に描くのは多少慣れてきた部分はあるもののそれでも最初に手をつけるまでの時間は長い。

毎回意識をそこまでに持っていくことに腐心してしまう。
それを時間がかかると思うのか描くまでの儀式と思うのか。
時間という概念をたやすく超えてみたい。

お山のいろ、春2023
草木染和miの衣とあらいいづみ小品展

3月19日(日)10:30-16:30
3月20日(月)10:30-16:00
お山からいただいたいろを使った草木染めの洋服や小物、自然を水彩で描いた小作品など。
「お山のいろ」3回目の春はバッグに描くコラボレーションです。

◯お食事
19 日(日)12:00-終わり次第終了
restaurantagenn からだにやさしいごはんとお菓子

20日(月)12:00-終わり次第終了
restaurantagenn からだにやさしいごはん
ota cookie 焼き菓子

◯飲みもの 両日
kurashino cafe

会場 カエルトープ 内 カエル舎
群馬県吾妻郡高山村尻高107-1

怒りの地層

立春で良い気分になっていたところにちょっとした出来事で感じることがあった。理不尽な事、権力への強い抵抗が自分のなかにある事は自覚していたけれどそれは同じようなカタチで時々やってくるのだ(苦笑)。そういう時って後から頭で考えてもよく分からない。疲れてたのかしら、今日あった出来事に原因があったかなと思い巡らす。

〇〇だから◼️◼️になった
あれは▽▽だから◎◎でしょ

原因が分からないと納得がいかない。もちろん理由があって結果があることもあるだろう。
複合的な理由の事もあるし本当のところはそんなの分からないんだろうなと。

これは何かのメッセージ??
それも自分が納得したいだけの意味づけになってるとしたらきっと違うんでしょうね。

昨日は少しだけ違う感覚で意識を眺めてみた。そうしたらどうも怒りの感情があちらこちらにあるらしい?いろんな状況でその時々に感じていたじぶんの感覚を信じられず誰かの言うことに沿った行動をしたこと、抑えてきてしまった気持ち。まるで地層のように積み重なってる・・・

納得して判断したつもりでいたのがそうではなかったということが今になって判明。。。
すっかり忘れていた。ちょっと今ごろ!?ってこえが聞こえてくる。
いや、その時はわかり得なかったんだよ。力なく答えるわたしがいて脱力するしかなかった。

「怒り」は良くないこと、その無意識に入り込んだ観念が我慢しているとお知らせのように現実に立ち現れる。必死で働いていたサラリーマン時代、わたしはずいぶん怒っていたんだと思う。でも同時にその怒りをどこに向けたら良いのかずっと分からずにいた。犯人探しをするように何でどうしてを繰り返しても自分がより観念を強めてしまうだけだった。だから考えるのをやめた。

今もそれは厳然とあるんだなぁ。時間が解決なんて実は無いのかもしれない。
じぶんの本当を発掘する日々は続く。

立春とつれづれ

立春を迎えるとやっとあけたなぁという気持ちになるのはいつからだったかな。多分数年前だと思う。Facebookの過去のわたしがこの時期はいつも体調が優れないことを教えてくれていた。土用の時期でもあるからきっとそういう身体と地球のリズムなのかもしれない。

昨日はお世話になっているお寺さんの節分会へ参加させてもらった。境内はとても冷えているのだけどそのキリッとした空気が良かったりもする。そういう季節の節目をしっかりと祝ったり感じたりしてヒトはずっと生きてきてるのだろう。

数日前には髪も整えてもらって頭が軽くなった。世界が恐怖に巻き込まれた事態から3年、随分と伸びた髪は春ころにドネーションできたらいいなと思ってる。 あれやこれやと話していたら突然「いづみさんはまじめって言われますか?」って。ありゃこれは良くないな。うん。

来月の展示に向けて少しエンジンがかかりだしたみたい。

なんどもなんども

前回文章にしてみて浮かんできたこと。あなたそれもジャッジしてるよね!ってこと。
なんだか笑えるー。この繰り返しどこまでもエゴ。

なぜはやく回復しないといけないの?

あと少しで1月が終わる。今年も3月に草木染めのnogomiさんと展示をご一緒する。

はやく、準備しなくちゃなのに。
どうして身体が動かないの、なんでどうして。

最初の頃は休むしかないな〜とのんきでいられたのが
だんだんどうして動かないんだ、わたしの身体となっていった。

焦りという感情を無意識に選択してしまうわたし。
そんなものを持っても碌なことがないのはこれまでの経験で
分かってきてるはずなのにというマインド。

体調がいまひとつだとそういう方向に転びやすいのかもしれない。
抜けきらない何かを抱えこみどんよりした日々。
以前よりはどうしたらいいかも分かるのにそれができない自分もいた。

ことばにもできない重たいエネルギー
苦しみは摩擦

でもからだはしっている。
春がやってくることを、みずから動きだせる力が自分にあることを。
数日前から自然と太陽礼拝にスクワットをやりだした自分がいた。
そう、やりたくなるまで待てば良い。
ほんとどこまでじぶんを信じきれるかに尽きる。

くまが教えてくれたこと

おきたできごとに対して僅かでも違う角度でみることができたなら。
過去も自在に変えることができる。うん、これは頭で考えていること。
腑に落としていく作業が生きてくってことなんだろうか。

受け入れるということ

1月の半分を過ぎた。年明けに体調が崩れたのだけど時々熱を出すのはからだの掃除になるみたいで気持ち良い部分があったりする。熱を出すにも体力が要るのだ。昔は熱が出せなくて不調期間がやたらに長くそれで消耗してという悪循環のなかにいたから熱が出るとちょっと嬉しい。

受け入れるということはどういう感覚なのか、わからないままずっと考えていた。

熱が下がったらいきなりこんな感じなのだろうかという曖昧模糊としたかたちがおぼろげにみえてきた気がしているのだけど。ことばにならないからそっとしておくことにする。