利他と被害者意識

1年くらいこのブログを書けずにいた。
少し生活が変わったこともありパソコンも開かないみたいな日々でそのまま流れてしまっていた訳なのだがその間にも書きたいことは沢山あってでもそのときに書き留めなければやはり流れていく。

それではいけないな、と思っていた。
ことばも習慣が無いと容易に自分のなかから失われていく。
人間は沢山のささやかな習慣からできている。

下書きのままだったこのタイトル。
人間の持ついろいろな気質や観念の組み合わせはその人自身の個性と言えるものだと
思うのだけど。矛盾していたりバランスを欠いたり居心地が悪かったりもする。

「誰かのために」と「やってあげたのに」
これは非常に相性が悪い。自分もこんなふうに思うことはもちろんあったし
そんなふうに思ってはそれを否定したり忙しかったなぁと思う。

こんな矛盾が起きるのはどこかでいい人してるからなんだなと思うようになった。
いい人って誰かにとっての都合がいい人。

私は長らくこのいい人をしてきたみたいなのだ。
相手の方の笑顔や喜ぶ顔をみたかっただけなのだけど。

その前に自分が楽しいのか嬉しいのか喜びのなかでの選択なのか。
そちらの方がずっと大切なことのようなのです。

 

ことばの自由さと不自由さ

人と人との関係性においては「ことば」を無くして
コミュニケーションは不可能なことが多い。
自分の想いを伝える、理解しあうにはことばが無ければ恐らく成り立たない。

だけれども想いがスムーズに伝わりあうことばかりではないし
勘違いから関係性が崩れてしまうことだって、ある。
伝え方が悪いのか?どのようにしたら目の前の人に理解してもらえるのかな
どうしてそういうことが起きてしまうのかなぁと長らく考えていた。

数年前、そのことが急に腑に落ちたときがあった。
ことばに対して意味づけている土台が違うのだから当たり前じゃないの。
どうしてこのことが分からなかったのだろうとは思ったのだけれど。

ことばにはことば自体が持つイメージがあると思うが
フォーカスすべきは恐らくそこではない。

その人のことばのチョイスの後ろにあるもの・・・
そこを感じることができないとその人が思っていることには
辿り着けないのかもしれないと思った。

そしてことばのみのイメージに傷ついたりするのだ。
もしかしたら発言するその人自身も意識していないこともあるのかな。

ことばそのものに囚われ生きてきた自分を想う。

心はどこにあるのか小さい頃から不思議に思っていた。
脳なのかな?って思うけれど悲しいことがあったときに
痛みを覚えるのは心臓の部分。胸が痛くなる。
だから胸の中心なのかな。

そういえば感情は体に記憶されると何かで読んだ。
だったら胸ばかりでもないのかなぁ。

この空間に在る体というもの。
目には見ることのできない心。

ひとの不思議は計り知れない。

暑すぎる夏

暑中お見舞い申しあげます。
わたしの住む場所は昨日40度になったそうで。
人間の体だったらインフルエンザくらいの異常事態ということになるのだろうか。
夏という季節の質が明らかに変わってきていると思う。

地球温暖化なんて何年も前から言われてはいるのだからそれに対して
人間がやれることをやってきていないということがあるだろうし
他にも理由はあるだろう。

以前は30度超えたら暑いと思っていた記憶があるから10度も高くなっては
身体もびっくりしちゃうだろうなぁ。夏こそ養生かもしれない。

自分はといえば個展の片づけや残務処理が完了しないまま自分のリズムに
戻るにはもう少し時間がかかりそう。

会いたい人もいるし少しずつ整えるのだ。

無事に会期を終了しました。

大徳寺さんでの個展は会期を終了いたしました。短い期間にかかわらず沢山の方々がお立ち寄りくださいました。大徳寺のご住職 妙教さん、妙婧さんはじめ沢山の方の助けがあって無事に終えることができました。心より感謝申しあげます。

普段ひとりの時間が多いので1年分、いや2年分くらい沢山の方々とお会いした気分です。途轍もないエネルギーを使って疲れはしたけれどもただの疲労とは違う満足感と確信を自分へプレゼントできたかもしれないという気持ち。

個展とは名前は同じでも毎回全く違う景色や気持ちがみえてくる不思議なものだなと感じます。それぞれの方が持つ人生の物語と自分が描いたものがクロスしてそこに何かが生まれるような感覚を覚えたり、作品を通してしかすることがなかったかもしれない会話。とても濃かった。

特に今回は広いペースだったということもあり、ここ10年ほどの作品も混ぜて展示して自分の仕事を見渡すこともできました。「変わったねぇ」という感想をくださった方もありましたが自分が思ったのは自分の持ってるものは変わりようがないということでした。だから安心してこれからも描いていこうというふうに思えた。

自分に対しての眼差しを変えることもゆるせるような気がしました。若い頃「結果」を出さなければ意味がない、と言われたことが自分のなかで幅をとっていたけれどそれまでの道のりが全く同じ人はいないから。それはことばで伝えなくたって描いたものから感じられるのかもしれないです。

「いづみちゃん、肉体の時間は限られてるからなるべくたくさん描いてね」

とある友人が言ってくれてあぁそうだなぁと。表現をこれだというところまで持っていくには物質的な時間は短すぎる。眠る時間も、好きなことをしていても気分転換だって必要だもの。

梅雨明け前から異常な暑さですがどうぞよい夏をお過ごしください。

「底知れぬ」

個展開催中です

前橋にある天台宗 五徳山 大徳寺さんで個展を開いています。
昨日初日を迎えました。毎日会場に居ります。

毎年蓮の季節に蓮まつりを開催されており同時開催となります。
会期中法要や坐禅体験、写経体験のほか水彩の体験ワークショップを開催しますので
お気軽にご参加ください。

昨日は大般若転読会があり大変賑やかな会となりました。
今のこの世界に生きているということ、しっかりと胸に刻みたいです。

あらい いづみ展「まどろむ」

2025.6.27(金)-7.3(木)
初日のみ12:00オープン

10:00-16:00

最終日の入場15:00まで

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【にじみや色を楽しむワークショップ】

6.29(日) 10:30-随時受付

所要時間30分から1時間ほど

参加費 1,000円

いつか確実に肉体を脱ぐということ

ずっと不思議に思っていた「生きてる」という感覚。
それなりに生きてはきたのに不思議だなぁという気持ちが時々湧きあがる。

誰に話すこともなく、こんなことを言ったら暗い人だと思われるかもしれないとか
大人なんですからそんなことを話したらおかしな人と思われちゃうかなとか。
実際に楽しいことだけにフォーカスされたそんな時代だったような気がする。

ヒトの感覚はそれぞれで考えもそれぞれということは大人の頭では当たり前。
「死」に対しては積極的に考えないようなバイアスを自分でかけていたのかもしれず。
恐れがいっぱいあるから。

でも、でも何でだろう?という感覚とは常に友だち。

日々労働や生活にまみれているとそういうことは考えないで済む。
目の前のことに精一杯で遠ざかってしまうけれど答えのない「生きる」ということ。

思考の渦に取りこまれたら苦しくなるけれども
それでも知りたいという欲求。

子どもじみている?

「大人なのだから」という意識が邪魔してるような気もする。
歳を重ねないと分からないこと。突然変異で全く違った人になる訳ではない。
そこには体感が伴う。

自分がいつかは死ぬということも頭では理解している(つもり)。
でもそこにリアリティは無い。何故なら今は生きているから。
誰かの死を通してしか感じることができないのだ。

どんなに歳を重ねても身体は絶えず生きる方向にしか動かない。
病気を得たとしたら生き方のバランス崩してるよというお知らせのサイン。
肉体という仕組みの完全性にいまさら驚くばかりなのだ。

いつだって私たちは不完全で完全なのだなあ。
そのことに深い感謝の気持ちが溢れるこの頃なのです。

おかあさんの庭

世間様はゴールデンウィーク。そう言えば今日は子どもの日だった。

作業していると母が「ねぇ月見草知ってる?」と聞いてきた。
聞いたことはあるけれどどんな花かは知らないと答えると
「ちょっと来て」と手招きする。

庭に黄色い花が咲いていた。
母がどこかからか移植してきたらしい。

ジューンベリーに巻きついたハゴロモジャスミンは
開花しだしてふわっとした香りでその存在をアピールしている。

「これさ、あなたがもらってきたフラワーアレンジメントから挿したのよ」
「何だっけ?」

「あじさいかと思ったらオオデマリだったね」
「こんなに大きくなるんだ、すごいね」

庭の端には野菜のポットが行儀よく並ぶ。
少し前に種まきをしたものの芽が出てきたのだ。

「これは買った種だけど、これはお母さんが種とりしたやつだよ」
いつの頃からか畑の野菜のほとんどを母が毎年を種とり育てていた。

「これ何だかわかる?」
「きゅうり?」
「お、正解。よくわかったね!」

「それじゃこれは?」
「えーとメロン!」

「ぶっぶー」
「なんか瓜っぽいんだけど」

「近いね」
「分からない」

「正解はマクワウリ」
「それは分からないよー」

太陽が燦々とふりそそぐなか
こんなやりとりをしたのはもしかしたら初めてかも

ちいさな頃、母の後ろにくっついて「これは何?」
と聞いてばかりだったわたしが出てきた。

生まれたときの家の庭が大好きだった。
引っ越したとき、おかあさんはもう庭には何も植えないと言っていたけれど
いつの間にかちいさくとも立派な庭が育っていた。

わたしはいったい何を見ていたのだろう。
そんなことを思うことが最近多い。

「おかあさんね、もう挿し木やめるね」って
今日言ってたけどどうだろう。

「大丈夫。好きなだけ挿せばいいよ。わたしが引き継ぐから。」

わたしには愛でるだけで育てる力が本当に無いのに
口から勝手にそんな言葉が出ていた。

 

忠誠心

自分が心から尊敬する誰か。
凄いなぁって思う人がわたしには本当にたくさんいる。

もちろんおじいちゃんもその中のひとり。

ふと尊敬と忠誠って似たようなことばだけれど何が違うのかなと。
忠誠と聞いたら家臣と家来のような上下関係を思い浮かべる。
尊敬はそういうことだけでなく範囲が広がる感じ。

忠誠には従うというエネルギーが入ってる?
ときには自分の意思と反することがあっても?疑問が湧いた。
改めて考えてみるとわたしの尊敬って忠誠心に近いのかなぁと。

人間の多くは様々な面を持っていて素敵と思うところもあれば
ちょっとそれは思う部分だって、ある。
そういう部分をすっ飛ばして「この人は凄い」という見方を選んでいるのはじぶん。
その逆も然りで「この人嫌だー」っていうのも同じ構造かもしれない。

春分を過ぎて

春分の日。カチッと何かが変わった感覚。
時計の針がひとつ進んだような。

暦ってすごいと前から思っていて
自分の身体と心と地球が同期しているのかな。

それを発見した昔の人はほんと凄いなぁ。

生きるということ

今年はおじいちゃんのことを考えていたら終わっていきそうな予感。結局のところ
おじいちゃんのことはきっかけに過ぎず、人間とは、世界とはということに繋がっていく。

ずっと生きていること、ここにいることが不思議と思っている子だった。

幼稚園に行き、学校にも行く。そこに疑問を感じることなくやってきた。
おまえは普通じゃないと言われ続けた言葉に普通を願って。

でも。なかなか正社員になれない、パワハラがエスカレートし躓くたびに
わたしはいったいここで何をしているのだろうと思う瞬間が増えていった。
とことんやりきるまで気づけなかったわたしは心も体もぼろぼろになるまで自分を追い詰めた。

ずっと無理してそれでも健気にやってくれていたからだにわたしはずっと鞭を打ち続けた。

絵を描いて生きたいんだって微かな自分の感覚に従えた自分を褒めてあげたいと思う。
わたしにとっては生きていくために必要なことだった。

おじいちゃんは戦争に行かずに済んだならどんな人生を歩みたかったのだろう。