無事に終了しました

お盆を過ぎたら秋の空気がまざりこんできました。
今年も無事伊東屋珈琲さんでの個展を終了することができました。
ご来場くださった方や想いを馳せてくださった方々に心からありがとうございます。

回数を重ねて慣れることもあり、慣れないこともあり。
でもやらなければよかったと思うことは一回も無い。

特に今回は自分へのダメ出しもなくがんばったねと素直に思えたかなぁ。
いや、へっぽこな自分は変わってはいないんだけど、それでも
まるをつけてあげてもいいようなそんな気がしたのでした。

遠方からはるばるとやってきてくれた友だちに直接作品を感じてもらえたこと。
そう、作品って観るのもそうだけど全体で感じるものなんだよね。
だからその空間をできれば感じてもらいたい。
空間をつくりたくもあるのです。

終わった後の満たされた気持ちと疲れと浮遊感。
今しか感じられない気持ちを感じさせてあげよう。



自然と芸術

アリストテレス「自然は芸術を模倣する」
オスカーワイルド「芸術は自然を模倣する」
わたし「どちらもそうなんじゃないかなぁ」

展示のお知らせ

暑中お見舞い申しあげます。7月も終わりですね。どうも夏もリズムを崩しているのでは、と思うような印象の今年です。来週の土曜日から一週間、桐生の伊東屋珈琲2号店(Itoya coffee factory)さまで展覧会をひらきます。データをみていたら去年も同じような時にやってました。夏は苦手、と思っていたけれどもしかしたら身体がいちばん動くのは夏かもしれない・・・と思うようになり暑い盛りの展示となります。でもちょっと暑すぎだなぁ。どうかご自身を労わりつつこの季節をたのしめますように。世界平和というものがあるとしたら自分を大切にすることから始まるのではないかしらと。そのことにやや確信を抱くこの頃なのです。

あらい いづみ展
ほとりにたたずむ
I can hear you.

2022.8/6(土)-8/13(土)
10:00-19:00
最終日は17:00まで

会場 Itoya coffee factory
群馬県桐生市仲町3-15-20

植物たちのように

暑過ぎたり雨が降り過ぎたり「過ぎる」ことが多いような気のするこの頃。
植物のようにただ在るように在りたいと願うわたしです。

エゴとの対峙

この数年、自分のなかで考え続けてきたことがあった。それは「エゴ」のこと。言葉って難しいとつくづくと思うのだけれどがエゴを自分がどう理解して意味づけていたのか何故苦しかったのか。少し分かってきた気がする。

「エゴじゃないところで受け入れられたらいいね」

突然の家族の病に戸惑い治癒を願う私に投げかけられた言葉がずっと頭から離れないまま時が経った。「エゴじゃないところで受け入れる」ということはわたしにはエゴがあるっていうことなんだな。ことばに敏感過ぎるわたしの頭にとしっかりそのことが刻まれた。それが今年になり治癒を願うことはやはりエゴなんだ思うようになった。

だからといって事実を受け入れられたかといえばそんなこともなく。
これからもずっと考えつづけていくのだと思う。

返り咲く力

私はバラが好き。好きなだけで育てるのは母。なのでもうこれ以上増やさないでと言われている。
今は3種類のバラが育っているがこの写真のバラは10年以上前、生産農家さんから購入したもの。カフェオレ色の茶色いバラだったのにいつの間にか色が変わっていた。母に尋ねると挿木されていた部分が無くなってしまい元のバラになったのよ、原種は強いよねとそんな話。

お花でも野菜でも先祖返りすることがままあるようだ。もともとのかたちに返ろうとする力。
ヒトはどうなのかな。経験や社会的な信念体系を歳と共に積み重ねてきているわたし。もともとはどんなヒトなんだろうと考えている。

庭のばら

フェイスブックより いのちのかたち2のこと

今年は5月らしい爽やかさを感じる日が少ないように思う。暑かったり寒かったりの寒暖の差が激しくて体調管理がいつにも増して難しい印象。フェイスブックは時々しか覗かなくなったけれど振り返る機能があって1年前、2年前と以前投稿したものが上がってくる。

少し前にあぁまだ1年前だったのかぁと思う投稿があがってきて自分のためにキープしておきたくこちらにも記すことにします。

以下転載 作品集

いのちのかたち2について

まだ5月だというのにそろそろ梅雨入り?みたいな感じですね。体が冷えます。作品集についての文章を書いてくれたのでご紹介したいと思います。私はこれを読み、記憶について考えています。長くなりますが良かったら。

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A4変形スクエアサイズ、32ページ 2021年4月発行

all watercolor drawings by Idumi Arai

all direction, words and photograph by Yosuke Tsuyuki (slowboat)

ここに収められたあらいいづみさんの作品は、3年前の2018年に描かれ、2019年に撮られたものが多く、加えて2020年に描かれて、本にすることを決めてから、2021年に撮られたものが収まっている。

2019年に撮った写真のことを自分では忘れていた。九州での個展に持って行ってしまう前に、(売れてしまったら、もう見れないかもという閃きのようなものがあり)記録として撮らせてもらったのだと思う。

2020年の後半から、様々な不調が続き、またコロナ禍も相まって、何かを作る気力も集中力も持てなかった中で、一気に歳をとったような気持ちになっていた。

そんな中で、あらいさんと折々、力の抜けた話をしたりしていたのだれど、そんな時にこの写真の存在を思い出した。

そこからリハビリのように丁寧に汲み取っていった。昔の自分が今の自分を助けてくれる、という言葉が、頭の中に常にあったような気がする。8割程完成したところで、あらいさんに伝えたのだった。

だからこれは、頼まれてもいないのに、作りたくて勝手に作った作品ということになる。そんな本は普通あまりないのだと思う。

締め切りを設けず、追われることなく、でも作りたいから作ってしまう、という、自然発生的な創作の姿がそこにはあった。

最初は、描かれたいのちのかたちそのものに助けられていった。次にそれを通じて、自分のいのちのかたちを探ることになっていった。いのちのかたちとは何だろう、と改めて思うようになった。

ひとは誰でも生まれながらに変わらないいのちのかたちを持っていて、それはそのひとの核のようなものだと思っている。

色々なことが付随していって、見えなくなっているけれど、形も大きさもかわらず、動かず、それはそこにあって、向こうから出てくることはないのかなと思う。ただ、こちらから時間をかけて、会いに行くことはできる。

表紙と中のカットに使われてもらった、重なったひかり、という作品は、本ができてしばらく借りていて、そのカット通りに窓辺に飾っている。作品の光の輪を見ていると、自分のいのちのかたちに繋がるような、光の記憶を手繰っているような感覚になった。

光は記憶、輪が重なると、それは記憶を辿っていくトンネルになる。

いのちのかたちにひかりを当ててやることは、赤ちゃんの自分にひなたぼっこをさせてやるようなこと、自分を大切にすることだ。

今の自分は、誰かに何かを伝えたくて、何かを作っているのではない、と思った。伝達以前の感じたものそのままだ。

ただ、自分の中を通して、何かを作ることで、同じような道筋を、その道しるべが形として残るかもしれない。

ひつようとしているひとには、かならずとどく、あらいさんとそんなことをよく話している。そして、それは本当にそうなのだと思う。

(slowboat つゆきようすけ)

https://www.slowboatlabel.com

ありのままで存在するということ

芍薬の季節。昨年、友人の営む金子農園さんの依頼で芍薬のお花を描いてポストカードを作った。それをギフトセットと一緒に販売してもらっている。芍薬をたのしみにしてくださっている方の所に一緒に旅立っているようだ。自分の代わりに旅をしているみたいで嬉しい。

蕾の状態で購入してきてから少しずつ開いてくるまで毎日観察している。
日々様子が違って本当にたのしい。

金子農園さんの芍薬はとにかく大きくて立派。じっとみているとそのままでいいんだよと言われているみたい。誰とも競わない自分という花を生きている。

金子農園の芍薬

やさしさとつよさ

「いづみちゃん、本当にやさしいひとはつよいんだよ」

つよさということばの意味は様々に・・・

わたしはまだ弱さを自覚する只中にいると思う。
本当のやさしさを生きてるうちに体現してみたい。

ひかりをあつめる

昔そんなタイトルの絵を描いた。その時のひかりと今感じるひかり。恐らく違うのだろうと感じる。ことばでうまく説明できないからそれは描くことであらわしていけばいいのかな。

父親に「俺にわかるように説明しろ」と小さい頃から言われ育ってきた。だからつい相手に分かってもらえるように説明しなくてはという想いがデフォルトである。つい説明が過剰になりかえってわからなくなったりしてしまうのだ。

何を言ってるかわからないと言われる。そうするとわかってもらえなかったという落胆を感じる。そんなことを繰り返し自分の不十分感を育ててきてしまったみたい。

そんなことに気づいたのはここ最近だ。いくらじぶんが説明を上等にしたとしてもわかる人はわかるし、わからない人もいる。ことばの不自由さとことばでしか伝えられないことを考えている。