立春を過ぎてようやく。 今年もよろしくお願いいたします。

心身ともにあけてきた感覚。外側に依らず自分の感覚に従う。
今は情報がたくさんありすぎて身体が悲鳴をあげてしまいそうになるし
頭はもっと知りたいとそれをやめることをさせないけれど。

立ち止まり耳をすませるのは自分のこころ。

今年はそんなことを大切にできたらいいな。
2024年が皆さまにとってもかけがえのないすばらしい日々でありますように。

いづみのづはずじゃないの

11月に入り、今年もあと2ヶ月。もしかしたら本当に時間が短くなっているのかもしれないと思うこの頃。自分の頭は過去と今と未来とを行ったりきたり。

俯瞰することはニュートラルに捉えることと同じくらいとても難しいなぁと思う。
自分の認識できることはとても狭くて、でも広大な海のようでもあり。

いま、セイダカアワダチソウが花盛りで車を走らせていると鮮やかなきいろが目に飛び込んでくる。この植物をみると自動的に中学一年の担任だった先生のことを思い出してしまう。

その当時「これは外来種でとても悪いやつなんだぞ」と先生は教えてくれて「へぇ!そうなんだ」と中学生のいづみちゃんは思った訳です。それが今では薬効がありお風呂に入れるととてもいいなんていうことを聞くように。それでも私の頭のなかでは悪いものというイメージが拭いきれないまま・・・
初めて見たり聞いたりの印象はなかなかに強い。

その先生はいわゆる熱血先生でいつも一生懸命な先生で。好きな先生ではあったけれど、いつだったか「いづみのづはふつうはすにてんてんだ」と言われたことがあった。もしかしたら冗談だったのかもしれない。けれどそのときの衝撃がいまだ自分のなかにあることに気づくのだ。

手放すことと受け入れること

お彼岸が過ぎ、さらに秋の空気を感じるように。寒くなってくると自然とじぶんの内側に目がいくようになる。わたしの場合は年がら年中そんな感じではあるものの。。。

サラリーマンの頃からヨガをずっとやっていて、今は時々やるくらいのスタンスだけれどいつからか「手放す」ということばを無意識によく使うようになっていた。

数日前ある方と手放すってヨガやってる人よく使うよねなんて話をしていたときのこと
あぁ、手放すとは受けいれるということでもあるのかなという感覚が頭をよぎった。

ベクトルとしては真逆だけれど。
何だかわたしにはそう思えた。

ことばの表現に長けていると簡単なのかもしれないけれど自分の感覚をことばでカチッときれいにはまるように言いあらわせたとき、水面がさささと波紋を描くようにわたしのこころの奥の方にまで届く感じがする。

だからわたしにとってはそれがほんとうのことなのかもしれない。

秋が少しずつ

四季のある日本は季節が変わっていくグラデーションの時間を楽しめる国。
いつもならお盆が過ぎれば空気が秋にさっと変わったりするけれど、
今年はなかなか秋になりきらず夏と秋とを行ったりきたりしているみたい。

わたしはこのグラデーションが好きなんだなあと思ったりする。
ものごとが急に変わる訳ではなく少しずつ変わっていくその時間。

でも、自分のことだと何ですぐに変われないのだろうと思ったりもするのだ。
矛盾してる。この自己矛盾感はいつからか自分を苦しめるものとしてずっと
わたしのなかにあったけれど遠くからみたらグラデーションってとっても魅力的。

どの瞬間もそれぞれの色があって全体が成り立つのだもの。
そんなふうに思えるじぶんをみつけた。

ゆらぎながら進む

自分の思うように、予定通りにできないと「わたしだめ」と思う癖がある。わたしはだめな人間という意識。いつからだろうそんなふうに自分を思うようになったのは。あまりにも自分に馴染んでいて同一化していた。だからずっと一緒にいたみたい。その意識と一緒に生きてきた。

この夏はとても暑くて本当に暑くて。暑いというより熱い。酷暑ということばがぴったりだな。
あー今日もやりたいことできなかったなぁってこころのなかでつぶやきつつ、でもわたしはだめだからできなかったわけじゃないのよというフォローも自分にしてみたりするこの頃。

自分の中に摩擦をつくらないようにするのだ。流れを澱ませないよう文章も書いてみよう。
自分のなかから出す作業は少しばかり距離を置いて自分を見られるような気がする。
今日で8月は終わり。今年も残暑が厳しそうですがどうかご自愛くださいますように。

絵を描いて生きていくということ

今年の連休は人が動き、久しぶりに街への賑わいが戻ってきた様子。
サラリーマンを卒業してから世間様とは同じ動きをしてこなかったのでよくは分からないのだけど
いつもと違う空気であることは何となく感じる。

「労働」というイメージ。
わたしのなかではサラリーマンのイメージがあり現在そういう働き方をしていないにも関わらず
絵を描くことを仕事として捉えきれないところがある。

それでも少しずつお金という対価をいただくようになり趣味や好きなことだけではない仕事という意味も帯びだしてきた。好きなこと、絵だけを描いて暮らしていくんだと強く思ったことの裏には自分がやりたくないことは一切しないという意味があったと思う。絵を描いていますと伝えると大概「え?絵を描くだけで本当に暮らせているのですか」ときかれる。画家というとそういう風に思う方が多いのだろう。

この数年展示活動を沢山させてもらえる機会はあったけれどやれば即売上になる訳でもなく終わったら次の展示、終わったらまた別の展示という繰り返しはやればやるほど体力気力は消耗していくという状態に。デザイナーやイラストレーターとは同じようで質が違うことが身に沁みた。どちらも器用にこなせる人もいるかもしれないけれどわたしはあいにくそういう器用さは持ち合わせていない。

一方で絵の価値=お金ではないということはずっと昔からあり、購入してくださる方が買いやすくなければ購入できないという理由で価格を決めたりもする。その裏には安くなければ購入してもらえないという意識も見え隠れする。金額=作業時間という見方もあるけれど時間がかかればかかっただけ良い作品がということでもないのが難しい。絵画は時折一瞬でよい感じのができてしまうことも、ある。

でもさ、絵「だけ」を描いて暮らしていくにはそうするしかないでしょう?

自分の思い描くイメージがいかに曖昧であったかというのは経験してみて気づけたこと。あらゆることを我慢をすることがデフォルトのまま生きてきて嫌なことには敏感だけど好きなことやりたいことを具体的に思い描くのは苦手だったのだと今になって思う。だから描くということにこの人生で出会えたことは奇跡みたいなもの。ずっと近くにあったのにね。

わたしにとっての描くことはただ描いている時間だけではないんだな。
空を見上げる、風にゆれる葉っぱを眺める、人と話す、そして働くことも。

結び目がわずかに緩むことが世界が広かったことを教えてくれるような気がしている。

痛みを愛に変えていく

痛み憎しみ苦しみ。
それらを愛に変えることができる人が
このせかいにはいるみたい。

本当につよいというのは
そういう人のことをいうのかもしれない。

気持ちの定点観測

春ははじまりの季節。
繰り返される季節に自分の心持ちの変化を感じたりする。
今年の春は特にそれが強いかもしれない。

2016年から続いてきたわたしのひとつの流れがもしかしたらピリオドを打ったのかも?という兆しが感じられる。感覚のことであるからはっきりとは言えないけれど。俯瞰が大切なんて頭ではわかっていてもどうやって遠くから眺めれば良いのかわからなかった。時を重ねるということはそういうことが分かるようになるということなのかな。

ヨガの先生から太陽礼拝を毎日することでその日の自分の調子がわかるようになるときいてなるほどと思ったことがある。同じようなことをくり返すことはあまり得意でないしルーティンはつまらないと思っていた。

絶望、悲しみで押しつぶされそうだったわたしのこころ。少しは遠くから眺められるようになったかしら。そう思ってのぞきこんでみたら悲しみのかたまりがボンってでてきてしまった。
いや人生ずっとそうして過ごしてきたのかな。待って、そこで蓋をしないで。耐えきれないほどの感情だったから。感じたくはないものがでてきてもそれは悪いことでも何でもないのだから。今感じられるものがあるのならしっかり感じてあげたい。

無事終了しました

おかげさまで3/19、20のイベントは無事に終了しました。
天候に恵まれ春を感じる2日間となりました。

そう、個展というよりはイベントなのですが。
沢山の人と会うのは楽しいものの私は沢山の人とお会いすると疲れてしまう体質でこのイベントが終わるといつも取り戻すまでにとても時間がかかってしまいます。

ひとりでいるのが好きだし静かな時間を愛しているのですがこのイベントは春の気配を感じられる頃ということもあり皆さんのわくわくした気持ちがとても伝わってきて・・・嬉しい気持ちを共有させていただけます。今年は3回目なこともあり、少し慣れたのか復活がはやくなった気がしています。そんなふうに感じられることもとても嬉しい。

イベントが終わったらあれよあれよというまに桜が咲きだし、春がやってきました。

自分を優先したら申し訳ない気持ち

やることが沢山ある、と思っているとせかせかした気分になってしまって集中力も削がれるし何しろ落ちつかない。自分の性質から余計にそうなるのも最近では自覚しているけれどなかなか自分の本分に集中しきれないのはどうしてなのか。

「あの人のところにお手伝いにいけるかなぁ、いや今は自分のことしないといけないでしょ。いやでも行こうと思えば行けるかも」

自分を優先することを心地よく感じていないみたい。誰かに貢献すること=良いことであるという想いの方が強く自分へ貢献することは考えたこともなかった。頼まれたら引き受ける、困っている方がいれば手を差し伸べることが強く自分の中に根づいていた。

どうしてそんなふうに考えるようになったのか…思い返してみると父親の「お前はわがままだ」という言葉が浮かぶ。呪文のように言われ続けて育った。「お前は普通じゃない」という言葉も。わがままっての思う通りに行動してはいけないってこと?普通ってどういうことなの?何となくこのままでいてはいけない感じがする。それは自分のエゴをゆるさないという観念にも繋がっていく。

ずっと普通であるということに憧れの気持ちがあってもっと頑張らないと普通になれないと思って生きてきたということに漸く気づく。自分の意見を言ったり主張してはだめ、わがままだから。そうして生きているうちにわたしはどこかに追いやられいつしか自分がどうしたら良いのかさえ分からなくなっていた。

いや自分を生きずしてどうする、せっかくわたしに生まれてきたのに。
自分の想念と一体化し過ぎているとこんな些細と思えることにも気づけなくなってしまう。
あれをする?これをする?毎日が小さな選択の連続。それにストレスを感じる自分。
この世界には普通なんてどこにも無いと分かったのにどこかでそれを探してしまう自分。

わたしはこれがしたいの。

シンプルに答えがでてくる自分に出会いたい。