アリストテレス「自然は芸術を模倣する」
オスカーワイルド「芸術は自然を模倣する」
わたし「どちらもそうなんじゃないかなぁ」
思うこと
植物たちのように
暑過ぎたり雨が降り過ぎたり「過ぎる」ことが多いような気のするこの頃。
植物のようにただ在るように在りたいと願うわたしです。
エゴとの対峙
この数年、自分のなかで考え続けてきたことがあった。それは「エゴ」のこと。言葉って難しいとつくづくと思うのだけれどがエゴを自分がどう理解して意味づけていたのか何故苦しかったのか。少し分かってきた気がする。
「エゴじゃないところで受け入れられたらいいね」
突然の家族の病に戸惑い治癒を願う私に投げかけられた言葉がずっと頭から離れないまま時が経った。「エゴじゃないところで受け入れる」ということはわたしにはエゴがあるっていうことなんだな。ことばに敏感過ぎるわたしの頭にとしっかりそのことが刻まれた。それが今年になり治癒を願うことはやはりエゴなんだ思うようになった。
だからといって事実を受け入れられたかといえばそんなこともなく。
これからもずっと考えつづけていくのだと思う。
フェイスブックより いのちのかたち2のこと
今年は5月らしい爽やかさを感じる日が少ないように思う。暑かったり寒かったりの寒暖の差が激しくて体調管理がいつにも増して難しい印象。フェイスブックは時々しか覗かなくなったけれど振り返る機能があって1年前、2年前と以前投稿したものが上がってくる。
少し前にあぁまだ1年前だったのかぁと思う投稿があがってきて自分のためにキープしておきたくこちらにも記すことにします。
以下転載 作品集
いのちのかたち2について
まだ5月だというのにそろそろ梅雨入り?みたいな感じですね。体が冷えます。作品集についての文章を書いてくれたのでご紹介したいと思います。私はこれを読み、記憶について考えています。長くなりますが良かったら。
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A4変形スクエアサイズ、32ページ 2021年4月発行
all watercolor drawings by Idumi Arai
all direction, words and photograph by Yosuke Tsuyuki (slowboat)
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ここに収められたあらいいづみさんの作品は、3年前の2018年に描かれ、2019年に撮られたものが多く、加えて2020年に描かれて、本にすることを決めてから、2021年に撮られたものが収まっている。
2019年に撮った写真のことを自分では忘れていた。九州での個展に持って行ってしまう前に、(売れてしまったら、もう見れないかもという閃きのようなものがあり)記録として撮らせてもらったのだと思う。
2020年の後半から、様々な不調が続き、またコロナ禍も相まって、何かを作る気力も集中力も持てなかった中で、一気に歳をとったような気持ちになっていた。
そんな中で、あらいさんと折々、力の抜けた話をしたりしていたのだれど、そんな時にこの写真の存在を思い出した。
そこからリハビリのように丁寧に汲み取っていった。昔の自分が今の自分を助けてくれる、という言葉が、頭の中に常にあったような気がする。8割程完成したところで、あらいさんに伝えたのだった。
だからこれは、頼まれてもいないのに、作りたくて勝手に作った作品ということになる。そんな本は普通あまりないのだと思う。
締め切りを設けず、追われることなく、でも作りたいから作ってしまう、という、自然発生的な創作の姿がそこにはあった。
最初は、描かれたいのちのかたちそのものに助けられていった。次にそれを通じて、自分のいのちのかたちを探ることになっていった。いのちのかたちとは何だろう、と改めて思うようになった。
ひとは誰でも生まれながらに変わらないいのちのかたちを持っていて、それはそのひとの核のようなものだと思っている。
色々なことが付随していって、見えなくなっているけれど、形も大きさもかわらず、動かず、それはそこにあって、向こうから出てくることはないのかなと思う。ただ、こちらから時間をかけて、会いに行くことはできる。
表紙と中のカットに使われてもらった、重なったひかり、という作品は、本ができてしばらく借りていて、そのカット通りに窓辺に飾っている。作品の光の輪を見ていると、自分のいのちのかたちに繋がるような、光の記憶を手繰っているような感覚になった。
光は記憶、輪が重なると、それは記憶を辿っていくトンネルになる。
いのちのかたちにひかりを当ててやることは、赤ちゃんの自分にひなたぼっこをさせてやるようなこと、自分を大切にすることだ。
今の自分は、誰かに何かを伝えたくて、何かを作っているのではない、と思った。伝達以前の感じたものそのままだ。
ただ、自分の中を通して、何かを作ることで、同じような道筋を、その道しるべが形として残るかもしれない。
ひつようとしているひとには、かならずとどく、あらいさんとそんなことをよく話している。そして、それは本当にそうなのだと思う。
(slowboat つゆきようすけ)
ありのままで存在するということ
芍薬の季節。昨年、友人の営む金子農園さんの依頼で芍薬のお花を描いてポストカードを作った。それをギフトセットと一緒に販売してもらっている。芍薬をたのしみにしてくださっている方の所に一緒に旅立っているようだ。自分の代わりに旅をしているみたいで嬉しい。
蕾の状態で購入してきてから少しずつ開いてくるまで毎日観察している。
日々様子が違って本当にたのしい。
金子農園さんの芍薬はとにかく大きくて立派。じっとみているとそのままでいいんだよと言われているみたい。誰とも競わない自分という花を生きている。
やさしさとつよさ
「いづみちゃん、本当にやさしいひとはつよいんだよ」
つよさということばの意味は様々に・・・
わたしはまだ弱さを自覚する只中にいると思う。
本当のやさしさを生きてるうちに体現してみたい。
ひかりをあつめる
昔そんなタイトルの絵を描いた。その時のひかりと今感じるひかり。恐らく違うのだろうと感じる。ことばでうまく説明できないからそれは描くことであらわしていけばいいのかな。
父親に「俺にわかるように説明しろ」と小さい頃から言われ育ってきた。だからつい相手に分かってもらえるように説明しなくてはという想いがデフォルトである。つい説明が過剰になりかえってわからなくなったりしてしまうのだ。
何を言ってるかわからないと言われる。そうするとわかってもらえなかったという落胆を感じる。そんなことを繰り返し自分の不十分感を育ててきてしまったみたい。
そんなことに気づいたのはここ最近だ。いくらじぶんが説明を上等にしたとしてもわかる人はわかるし、わからない人もいる。ことばの不自由さとことばでしか伝えられないことを考えている。
自分をしっているということ
今年の連休は3年ぶりに規制のないおやすみのようでどこも人で賑わっているようだ。賑わいが戻ってくるのはとても喜ばしいことなんだろうなと思いつつも、人が沢山の場所が苦手なのだと改めて感じている。
母は昔から出かけることを好まず家にいるのが好きな人だった。庭や畑の仕事をするのに外に出るくらいで用事がなければだいたい家にいた。そんな母をつまらない人だなぁなんて思ってもいたのだ。
喧騒を離れ静かな喫茶店で珈琲を啜りながら読書をし思いに耽る時間をたいせつだと思うようになってきた自分。歳をとるとかじゃなくて、志向が違うだけでしょ。母のことばが胸に響く。
わたしの住みたいせかいは
ずっと変わらない
焦りを超えた先に
お知らせしている展示まであとわずかとなりました。直前になってくるとどうあがいても仕方がないと思えるのか、ざわついた気持ちが無くなって澄んだ気持ちになってくる。ここまでがいつも長い。だいたいが直前でもっとはやくと思うのだけどそう思うのはエゴなのでしょうね。でもそこにサレンダーできれば時間は気にならなくなって楽しいことしかないというのか無限に自由な空間があらわれる(気がする)。
今回は出店してくださるお菓子屋さんとコラボしたり、新しいカードやポストカード を追加してつくりました。ちなみにそのお菓子屋さんは「香良風」さんという植物性の材料のみでお菓子づくりをされているセンス抜群の方。
ポストカードを購入してくださった方に入れる袋に押すスタンプもつくってみたり・・・活動のロゴなどないものだから何も無いのが寂しいなと思ってただつくってみたかっただけなのですがこういうきっかけがないとずっとつくらないのだろうな。
あと少し、自分の世界を遊びたいと思います。
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