ひとりの人間の存在

おじいちゃんとの関係はベタベタしたものではなかったけれど
自分でも驚くほどにおじいちゃんの存在が大きかったみたいで。

私の初めての葬儀体験は高校3年生のとき、父方の祖母が亡くなったときだった。
受験生で尚且つ自分の誕生日に逝った祖母とは関係が薄くお葬式に行ってもどこか他人事のようだった。母親はこのおばあちゃん翻弄されてばかりだったのをみていたからか母親を虐める人というイメージもあった。柩のなかにいる祖母を見ていても泣くことができなかったのを覚えている。

母方の祖母が逝った2019年、私は遠い場所に居てお葬式に参列することができず
帰ってきたらおばあちゃんは箱の中の骨になっていた。
もちろん悲しみを感じてはいたのだけれど、葬儀に出席しないという
プロセスをすっ飛ばしているせいかどこか現実味が無い事も確かだった。

そして今回、おじいちゃんが息を引きとる瞬間から葬儀まで私の身体が
感じて湧きあがってくる様々な想いや感情。

おじいちゃんの心臓が止まったとき、ただの体になったという感じがした。
物質である体が存在できるこの三次元の世界での存在はとても大きなことなんだな。

おじいちゃんは小さな頃よくデパートにも連れていってくれて最上階にあるレストランで
食事をするのが私の楽しみだった。そんな時おじいちゃんはいつも背広を着ていていたから
火葬の際にもスーツでビシッと決めて旅立っていった。話しかけたら返事が返ってくるようなそんな気さえした。

いづみ、お茶碗に残ったお米はひとつも残しちゃいけないよ
時計と靴だけはいいものを買いなさい

90歳を超えても自分で運転してカラオケと体操教室に通っていて
たいして髪の毛が無くたって毎月床屋さんへ行っていた。

19歳で戦争に行き、負け戦と言われながら実行されたインパール作戦に参加し
その時に受けた銃弾が体に入ったままだったおじいちゃん。
お骨になったらその弾を見届けようと尋ねてみたけれど、それは無くなっていた。
一緒に空に上がっていったようだ。

火葬されるのを待っていたとき、空を眺めていたら頭上に大きな鳥がくるくると2回
廻旋して去っていった。おじいちゃんだと瞬間的に思った。

こんなにしっかりお骨が残るのは本当に珍しいことです、と葬儀場の方が仰って
くださったけれど骨になってもおじいちゃんはおじいちゃんだった。

美しいと感じた。そして堂々としていた。

母に「俺といづみは気が合うんだ」って言ってたらしい。
本当だったのかどうか今となっては確認する術がない。

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