思うこと

ことばが浮かんでは消えていくから

来年の手帳を買った。昔はメモ魔だったけれど、書けば書くほどマインドを強める気がして書くことをしなくなりもう何年もぺらぺらのノートで十分だったのだけれど。軽いしね。

ぱっと頭に浮かぶことばやちょっとした出来事。書いておくと記憶の手がかりになるんだなぁと

習慣とは恐ろしくやらなくなるとまるで無かったかのような振る舞いでわたしの頭は空っぽだ。
紙をめくる音やペンで書きつづる文章。ささいな事が筋トレのようになっていたように思う。

そして月のリズムをまた思い出したいなぁと思っていたらこんな手帳をみつけた。ちょっと贅沢かなとページを開けては閉じたりを何回か繰り返し自分にプレゼントした。さて、書けるかな。

終わらない夏

9月も半ばだというのに気温がなかなか下がらない。秋だなぁと感じる空気や瞬間は時折あるもののそれ以上に暑い印象。

野菜やくだものはその季節をほぼ間違いなく教えてくれる。
草も花もそうだけれど。

それは何でかなと考えたら誰に教えてもらうものでもなくそもそも備わっている知性なのかなと思う。人間にも同じくそんな知性があるんじゃないかしら。

春に感じること

春を待ち遠しく思う気持ちとまだこないでという気持ち。
春は揺らぐ。春は切ない。
いろんな気持ちがわきあがるこの季節。
集合意識と集合無意識と。

人間はさまざまな感情を感じて生きているようでも
ようくみてみればそんなにたくさんではないみたい。

変わりめを迎える方々にこころからおめでとう。

すべてが内側からの発露

「I know」というタイトルの作品。2016年に描いたもの。

描いたときにわからずにいたことが後になって何となく腑に落ちるというようなことがけっこうある。
時間を超え語りかけてくる。

「自分で何を描いているか分からないって何ですかそれ(笑)」というようなお言葉をいただいたりしてそれをすこし恥ずかしいことだと思ったりもしていたけれどそんなことはなかったな。少なくとも自分にとっては。

いづみのづはずじゃないの

11月に入り、今年もあと2ヶ月。もしかしたら本当に時間が短くなっているのかもしれないと思うこの頃。自分の頭は過去と今と未来とを行ったりきたり。

俯瞰することはニュートラルに捉えることと同じくらいとても難しいなぁと思う。
自分の認識できることはとても狭くて、でも広大な海のようでもあり。

いま、セイダカアワダチソウが花盛りで車を走らせていると鮮やかなきいろが目に飛び込んでくる。この植物をみると自動的に中学一年の担任だった先生のことを思い出してしまう。

その当時「これは外来種でとても悪いやつなんだぞ」と先生は教えてくれて「へぇ!そうなんだ」と中学生のいづみちゃんは思った訳です。それが今では薬効がありお風呂に入れるととてもいいなんていうことを聞くように。それでも私の頭のなかでは悪いものというイメージが拭いきれないまま・・・
初めて見たり聞いたりの印象はなかなかに強い。

その先生はいわゆる熱血先生でいつも一生懸命な先生で。好きな先生ではあったけれど、いつだったか「いづみのづはふつうはすにてんてんだ」と言われたことがあった。もしかしたら冗談だったのかもしれない。けれどそのときの衝撃がいまだ自分のなかにあることに気づくのだ。

手放すことと受け入れること

お彼岸が過ぎ、さらに秋の空気を感じるように。寒くなってくると自然とじぶんの内側に目がいくようになる。わたしの場合は年がら年中そんな感じではあるものの。。。

サラリーマンの頃からヨガをずっとやっていて、今は時々やるくらいのスタンスだけれどいつからか「手放す」ということばを無意識によく使うようになっていた。

数日前ある方と手放すってヨガやってる人よく使うよねなんて話をしていたときのこと
あぁ、手放すとは受けいれるということでもあるのかなという感覚が頭をよぎった。

ベクトルとしては真逆だけれど。
何だかわたしにはそう思えた。

ことばの表現に長けていると簡単なのかもしれないけれど自分の感覚をことばでカチッときれいにはまるように言いあらわせたとき、水面がさささと波紋を描くようにわたしのこころの奥の方にまで届く感じがする。

だからわたしにとってはそれがほんとうのことなのかもしれない。

秋が少しずつ

四季のある日本は季節が変わっていくグラデーションの時間を楽しめる国。
いつもならお盆が過ぎれば空気が秋にさっと変わったりするけれど、
今年はなかなか秋になりきらず夏と秋とを行ったりきたりしているみたい。

わたしはこのグラデーションが好きなんだなあと思ったりする。
ものごとが急に変わる訳ではなく少しずつ変わっていくその時間。

でも、自分のことだと何ですぐに変われないのだろうと思ったりもするのだ。
矛盾してる。この自己矛盾感はいつからか自分を苦しめるものとしてずっと
わたしのなかにあったけれど遠くからみたらグラデーションってとっても魅力的。

どの瞬間もそれぞれの色があって全体が成り立つのだもの。
そんなふうに思えるじぶんをみつけた。

ゆらぎながら進む

自分の思うように、予定通りにできないと「わたしだめ」と思う癖がある。わたしはだめな人間という意識。いつからだろうそんなふうに自分を思うようになったのは。あまりにも自分に馴染んでいて同一化していた。だからずっと一緒にいたみたい。その意識と一緒に生きてきた。

この夏はとても暑くて本当に暑くて。暑いというより熱い。酷暑ということばがぴったりだな。
あー今日もやりたいことできなかったなぁってこころのなかでつぶやきつつ、でもわたしはだめだからできなかったわけじゃないのよというフォローも自分にしてみたりするこの頃。

自分の中に摩擦をつくらないようにするのだ。流れを澱ませないよう文章も書いてみよう。
自分のなかから出す作業は少しばかり距離を置いて自分を見られるような気がする。
今日で8月は終わり。今年も残暑が厳しそうですがどうかご自愛くださいますように。

絵を描いて生きていくということ

今年の連休は人が動き、久しぶりに街への賑わいが戻ってきた様子。
サラリーマンを卒業してから世間様とは同じ動きをしてこなかったのでよくは分からないのだけど
いつもと違う空気であることは何となく感じる。

「労働」というイメージ。
わたしのなかではサラリーマンのイメージがあり現在そういう働き方をしていないにも関わらず
絵を描くことを仕事として捉えきれないところがある。

それでも少しずつお金という対価をいただくようになり趣味や好きなことだけではない仕事という意味も帯びだしてきた。好きなこと、絵だけを描いて暮らしていくんだと強く思ったことの裏には自分がやりたくないことは一切しないという意味があったと思う。絵を描いていますと伝えると大概「え?絵を描くだけで本当に暮らせているのですか」ときかれる。画家というとそういう風に思う方が多いのだろう。

この数年展示活動を沢山させてもらえる機会はあったけれどやれば即売上になる訳でもなく終わったら次の展示、終わったらまた別の展示という繰り返しはやればやるほど体力気力は消耗していくという状態に。デザイナーやイラストレーターとは同じようで質が違うことが身に沁みた。どちらも器用にこなせる人もいるかもしれないけれどわたしはあいにくそういう器用さは持ち合わせていない。

一方で絵の価値=お金ではないということはずっと昔からあり、購入してくださる方が買いやすくなければ購入できないという理由で価格を決めたりもする。その裏には安くなければ購入してもらえないという意識も見え隠れする。金額=作業時間という見方もあるけれど時間がかかればかかっただけ良い作品がということでもないのが難しい。絵画は時折一瞬でよい感じのができてしまうことも、ある。

でもさ、絵「だけ」を描いて暮らしていくにはそうするしかないでしょう?

自分の思い描くイメージがいかに曖昧であったかというのは経験してみて気づけたこと。あらゆることを我慢をすることがデフォルトのまま生きてきて嫌なことには敏感だけど好きなことやりたいことを具体的に思い描くのは苦手だったのだと今になって思う。だから描くということにこの人生で出会えたことは奇跡みたいなもの。ずっと近くにあったのにね。

わたしにとっての描くことはただ描いている時間だけではないんだな。
空を見上げる、風にゆれる葉っぱを眺める、人と話す、そして働くことも。

結び目がわずかに緩むことが世界が広かったことを教えてくれるような気がしている。